鍋を焦がしたい
なにがやりたいかなんてわからない。
みんなきっとやりたいことなんてなくて、でも気持ちの上澄みみたいなところにある微かな興味を必死に掬い取って、水で薄めて増やして、尊大なものに見せているのに過ぎないのだ。
必死になった経験は人を生かす。経験の記憶はこびりついて自信となって私たちを生かす。一方、必死になることから逃げた人間は、まるで新品の鍋みたいにピカピカした人生の器を、その使用感のなさを誇りのようにうそぶいて生きていくのだ。無がなにか意味をなすことって少ないと思うけれど、経験はその例外なんじゃないか。あったほうがいい。へりくつを言えば、経験をしていない経験をしているともいえるけれど。無の概念は有と同義なのかもしれない。
わたしは空っぽだ。知識も感情も熱意もたぶん足りていない。
何かに打ち込む/全力になる/必死になるには燃料が必要で、その燃料に火をくべて、水で薄めた興味とか、薄める気持ちとかを、それこそ鍋に入れてこつこつ煮込まなければいけないのだ。
その過程で生まれた汚れとか、焦げ付きとかが経験として積み重なっていく。
楽をして生きてきた人間にはそんなもの一切なくて、空っぽで空虚で、新品みたいな人間の出来上がり。
そういう人間は往々にして少し人よりも頭がよくて、それでいて斜に構えていて、ちょっといい高校にかよって、そこで要領よくやって、現役で、早稲田か慶応かMARCHの上位学部か、東大京大一橋東工じゃないけど、駅弁大学でもない、そこそこの国立大学に入って、世間に中途半端に優しくされる。でも本人は自分のポテンシャルをつねに「やればもっとできる」に設定していて、他人を馬鹿にしている。とおもう。
実際そういう人間が、やればできるのは事実だとおもう。
だからといってやるかどうかは別だ。絶対にやらない。やらないからできないのだ。
わたしはそういう人間だ。やらないからできない側の人間。
できる自分を夢見て、夢を見ることで満足する。
わたしも鍋を焦がしたい。